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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

貨幣を生む発想、生まない発想

難民キャンプや捕虜収容所のようなところでも、市場が自然発生する。第2次世界大戦中の捕虜収容所では、タバコが通貨の役割をしていた。そのような交換媒体がすぐにできたのは、そこにいた人々が、もともと貨幣経済の中で生活していたからだろう。しかし、そのような特殊な環境で、必ずしも交換媒体を使う必要はないようにも思える。物々交換のままではいけなかったのか?
考えられるのは、貨幣のもう一つの機能、「価値の尺度」だ。素朴な交換市場では、取引の都度交渉がなされる。Aの提供する物品/サービス(a)と、Bのもつ(b)を、どれくらいの数量比で交換するのか?交換媒体があったほうが、値踏みや交渉がしやすいし、他の選択肢との比較検討もしやすく、便利に違いない。

ところで、インカ文明では、「キープ」という紐の色と結び目で、納税や人口といった数量的情報を記録・伝達していた。
私たちは、ともするとインカのような人々の知恵や思考を素朴だと考えがちだが、キープや優れた建築と織物の技術を見ると、実はかれらは、私たちよりはるかに数量的センスが発達していたのではないかと思えてくる。あるいは、数や量の把握の仕方が非常に右脳的・直感的なもので、私たちとはかなり違っていたのかもしれない。(だからこそ、私たちの数量表現と似たキープの十進法は、数年にわたる学校教育が必要だったのかも。)
そして、もしかしたら、インカ人たちとって、モノの性質―大きさ、重さ、機能(クオリティ)などと数量は、つねに紐付けられていて、私たちのように完全に分離・抽象化して考えるという発想自体がなかったのかもしれない。自然の岩の形を生かした「オーガニック・アーキテクチャ」や、一つ一つ形も大きさも違う巨大で精緻な石組みが、その可能性を示唆している。

私たちは、モノの要素を抽出・抽象化し、均一化・均質化によって現実世界をコントロールする方向へ向かったが、インカ人たちは違った。かれらのような価値観・世界観からは、貨幣はもちろん、私たちが使っているような純度の高い「等価」、「同等」といった概念も生まれてこないし、それに基づく交換取引という発想も出てこないのではなかろうか。