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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

家紋は正露丸?(勝手に商標使ってスミマセン)

素朴な疑問だが、貴族や王族とよばれる人たちは、一体いつ、どのようにして、その身分になったのだろうか?
超古代、まだ親族を中心とする小グループしか存在していなかった頃から、グループ同士の戦いと略奪により、少しずつ領土や財を増やしていったファミリーが、図々しくも奪った土地をもともとの居住者に貸し与え、租税や年貢を徴収するようになったのが始まりだろうか。かれらは、征服・支配の正当化と体制維持のため、自分たちを特別な存在だと主張するようになったのかもしれない。しかし、権威付けには、より上位の権威(神秘性があるほどよい)からの授与が必要となるだろう。当時のシャーマニズムや祭祀信仰が利用されたのかもしれない…。

その謎は解けなくとも、イタリア自治都市(コムーネ)の発展と新興商人階級の誕生は、国家と支配階級が生まれる、ひとつのパターンと考えられる。
11世紀頃から商工業が盛んになってくると、商人や職人たちが自らを組織化し、その自治組織が都市統治の組織へと成長していった。そして、13世紀後半になると、有力都市は周辺農村部を支配するだけでなく、近隣諸都市に攻撃を仕掛け、領土を拡大するようにもなる。しかし、商人・企業家の同業組合を基盤とする都市の民主的自治制は、しばしば殺し合いを伴う党派闘争をおこし、多くの北イタリア自治都市国家が内紛の果てに自由を放棄、僭主を戴く独裁制の小領邦君主国家に転化していった。

「アルテ」と呼ばれる商工業者の同業組合による支配体制を確立していたフィレンツェも、一時僭主制への転向を図るが、市民蜂起より失敗した。その後、内実はともかく紆余曲折ありながらも、比較的長く民主共和制が続いたのは、メディチ家の存在による。
銀行業と毛織物工業で富を築いたメディチ家は、従来の土地貴族とは違う、商人らしい巧みな政治をおこなった。特にコジモ・デ・メディチは、メディチ党の一党独裁に見えないよう、自分は表に出ず、選挙管理委員会公安委員会といった要所を押さえて、表面上は民主共和制を維持した。また、コジモは戦争を好まず、領土を増やすのも、金で買収する方法を好み、人脈と金の力で巧みにイタリアの平和を構築した。
それでも最終的には、1532年、クレメンス7世の息子(庶子)、アレッサンドロが「フィレンツェ公」となり、メディチ家は正式な君主となる。そして、1569年には、教皇からトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェトスカーナ大公国の首都となった。

ところで、メディチ家のルーツは、名が医師(Medici 複数形)を意味し、丸薬または吸い玉を表す赤い球が紋章となっていることから、元々は薬種商であったという説があるが、あまりはっきりしない。
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参考文献: 『物語 イタリアの歴史 ― 解体から統一まで』 藤沢 道郎・著