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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

ピダハンについて 2

人間は、なかなか自分がどんな偏見や先入観を持っているか気がつかないものだ。私も例外に漏れず、エヴェレットの本を読むまでは、いわゆる先住民と呼ばれる人々の社会に対して間違った思い込みを抱いていた。
その一つが、どのような人間社会にも(そしておそらく群れをつくる高等な哺乳動物にも)長(おさ)のようなグループをまとめるリーダー的な存在がいるという考えだ。エヴェレットによると、それはまったくの間違いで、ほとんどのアメリカ先住民の部族には、そのような権威的な立場は存在しないそうだ。彼らの社会は伝統的に平等で、人びとの生活は私たちが考えるよりはるかに自由らしい。

ピダハンたちは、集団意識がいたって強いにもかかわらず、個人に対して集団の強制力が働くことはまずないそうだ。ピダハンが他のピダハンに何かを命じるのは、たとえ親子間であっても稀で、集団の規範を破ろうとしている者を、別のピダハンが止めようとするところを見た記憶がないと、彼は述べている。

しかし、いわゆる「公的な」強制勢力というものが存在しないピダハン社会にも、「強制」は存在する。その主な形は、村八分と精霊の存在である。
村八分は、日常レベルでは、しばらくの間(一日から数日)食べ物の分け合いに加えないという方法で、まれに「追放」レベルの村八分があるようだ。あと、カオアーイーボーギー(「早口」の意)という精霊(ピダハンは精霊や悪霊が見える)が、村人にいろいろと忠告をする。

ピダハンの社会は、権力とも暴力とも、ほとんど縁のない平和な社会である。
憶えきれないどころか存在すら把握しきれないような大量のルールや規制、罰則をもうけ、警察や裁判所などの権力を駆使しても、暴力や社会的逸脱行為がいっこうに減らない私たちの社会からは程遠い世界だ。ピダハン社会に対する私の複雑な心境を伴った感嘆は、いかに私たちが、権力やトップダウン、ピラミッド構造といった社会の在り方に慣れて、当たり前になっているかをあらわしているのかもしれない。
それが人間の集団が秩序を保ち、平和裏に暮らすための絶対条件ではないという生きた証拠を、ピダハンは私たちに突きつけている。