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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

ピダハンについて 3

前回の記事で書いたように、ピダハン社会には権力や個人に対する集団からの強制というものがほとんどない。それだけでなく、プライベートな人間関係においても、他者に指図するようなことは基本的によしとされない。そして、これは子供のピダハンに対してもいえるのである。

私たちの社会では、子供は子供扱いされる。子供は大人が守り育てなくてはならない存在であり、時代が下り社会が複雑になるほど、成人と見なされる年齢は高くなる傾向にある。
それとは対照的に、ピダハンはまず子供に対して、いわゆる「赤ちゃん言葉」を使わない。体格や体力に合わせて食事の量などが変わることはあっても、乳離れした子供は基本的には大人と対等と考えられ公平に扱われる。

例えば、エヴェレットはたまたまビデオに写った親子の様子について書いている。
幼児が刃渡り20センチほどの鋭い包丁をもてあそんでいて、振りまわすたびに刃先がその子の顔や体をかすめている。ところが、母親は注意するどころか、子供が包丁を落とすと拾い上げて、その子に手渡してやっているのだ。これは、私たちの社会ではおよそ考えられないことだ。

アマゾンの厳しい自然の中で生きるピダハンは、子供をあえて危険から遠ざけようとはしないのである。まだよちよち歩きの赤ん坊でさえ、最初から怪我しないよう母親が守ってあげるわけではない。赤ん坊が怪我や火傷をすれば、手当はしてもらえるが、抱きしめたりやさしい言葉をかけられたりするのではなく、叱られるのだ。このように育てられた子供は、いたって肝の据わった、それでいて柔軟な大人になるという。

私たちの社会では、子供をこのように扱うことは(児童虐待や児童労働などの問題もあるし)無理があるだろう。それでも、特に今の日本では、もっと子供たちを小さい時から少しずつ大人扱いしていってもよいのではないかと思う。自分自身を振り返っても、企業の中で見てきた何人かの新卒新入社員の様子を思い出しても、そう痛感する。