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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

ピダハンについて 4

言語学には「交感的言語」という用語がある。「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」「ごめんなさい」のような、何か新しい情報を提供するものではないが、単に相手を認めたり、善意や敬意を表したりして、社会や人間関係を維持する働きをする言葉である。
ピダハンの文化は、このようなコミュニケーションを必要とせず、ピダハン語には「ありがとう」「ごめんなさい」に相当する言葉がない(ヤノマミ族のような他のアマゾンの先住民族にも同じ特徴が見られると聞いたことがあるが未確認)。
これはなにも彼らの感情が乏しいとか、仲間への思いやりがないというわけではない。エヴェレットによると、ピダハンは自分に厳しく、年配の者やハンディのある者に優しいそうだ。仲間への感謝や謝罪の気持ちは言葉でなく、手伝いなどの行動によって示されるのである。

このような言語的特徴は何を意味するのだろうか?まずひとつ考えられるのは、彼らの感性や価値観が均一で、個々人レベルで見ても、ほとんどバラつきがないのだろうということだ。きわめて平等な社会のため、身分、立場の違いから利害の衝突や考え方の違いが生じることが、私たちのような社会と比べるとほとんどないのだろう。くわえて、長い年月を他民族と隔絶された状態で過ごしてきたピダハンたちは、文化の違う相手とのコミュニケーションで、そのようなノウハウを培う必要性もなかったと想像することができる。

あと、私たち自身の価値観をふり返ってみれば、人間の「心」とか「内面」というものに対する考え方があるかもしれない。私たちは、人間には内面があり、そこで感じたり思ったりしたことを、外に表現することもあれば、心に秘めることもあると考えている。しかし、私たちが当たり前のように考えているこうしたアイデアも、実は普遍的なものではなく、文化的なある種の「縛り」だともいえるのではないか。
私はエヴェレットの著書を一冊読んだだけで、ピダハン語やピダハン文化の何をわかっているわけでもない。だが、彼らに言わせれば、行動に表れない感謝や謝罪の気持ちなどというものは、そもそも存在しないのかもしれない。自分たちの文化を相対化するのは時に非常に難しいが、異文化について学び、理解しようとするならば、それは鏡のように自分たちの文化にもはね返り、自らに突きつけられることだ。

ところで、去年の震災直後、TVでは多くの企業CMにかわり、『魔法のことば、ポポポポーン!』という、あいさつ推奨のAC広告が繰り返し流されていた。交感的言語は、幼い頃からの教え込みが肝心なのだな。。。