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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

ピダハンについて 5

交感的言語が無い以外にも、彼らの言葉にはユニークな特徴がある。
まず、ピダハン語には比較級―「これは大きい、あれはもっと大きい」のような表現がない。また、完了した過去を語る叙述も見当たらなかったそうだ。
それだけではない。赤、青といった色彩を表す単語もなく、色を表現するときは、たとえば赤なら「あれは血みたいだ」とか、緑なら「まだ熟していない」というような説明的な表現になるという。

そして、何より私が衝撃を受けたのは、ピダハンには数がないということだった。
エヴェレットは初め、世界の他の場所でよく見られるように、1、2、「たくさん」という数え方があると考えていたそうだ。だが後に、自分や前任者たちが数と思っていたものが、単に相対的な量を示しているだけだったと気づく。

エヴェレットは、ピダハンたちに頼まれて毎夜、算数と字の授業をするようになる。お金のことが分からない彼らは、川を上ってやって来る交易商人との取引きで、自分たちが騙されていないか見抜けるようになりたかったのである。エヴェレットと夫人は、毎晩自主的に集まってくる熱心なピダハンたちに、8ヵ月間、ポルトガル語で1から10までの数え方を教えた。ところが、彼らは誰ひとりとして10まで数えられるようにならなかったのである!

私は以前、小さな魚やカラスにも数が分かることや、サルも簡単な計算ができることを示す実験について書いたりしたので、この話には本当に驚いた。数と量はまったく次元の違う概念で、数より量を把握する方が、人間のサバイバルには重要なのだろうか?それともピダハンが(あるいは実験に使われた魚やサルが)特殊な例だったのか…?
その結論を私は出せないけれど、少なくとも色や数そのものを言葉で表すことは高度な抽象化・普遍化であり、人間はある程度成長してしまってから、初めて数や勘定のしかたを学ぼうとしても難しい場合があることは確かなようだ。私は言語化自体が抽象化なのだからと大雑把に考えていたが、本当はもっと複雑で階層的なプロセスがあるのかもしれない。