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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

ピダハンについて 6

ピダハンは、私たちが普段何気なく使っている方向や方角を示す表現も、けして普遍的なものではないことを教えてくれる。
私は、人間は(他の多くの動物も)眼と他の五感を使って自分の棲む世界を見たり感じたりしているのだから、まず自分中心に外の世界を捉えるのが基本だろうと思っていた。

アメリカ人のエヴェレットも、自分を基点とする空間表現に慣れてしまっていたのだろう。ある時、彼はどうしてもピダハン語の「左手」「右手」にあたる単語を見つけることが出来ずに悩む。しかし、ピダハンたちと一緒にジャングルに入った体験などを通じて、彼らが方向を知るのに川を使っていることに気づく。
その後何年も経ってから、エヴェレットはマックス・プランク心理言語学研究所の研究報告を読み、文化や言語によって、局地的な方向を示す方法には、大きく2つのやり方があることを知るのである。

ひとつは欧米をはじめ多くの文化に見られる「エンドセントリック・オリエンテーション」と呼ばれる方法で、右/左のように身体との相対的な関係で方向性を表現する。
もうひとつはピダハンのように、外部の絶対的な指標に基づき方向性を決めるやり方で、「エクソセントリック・オリエンテーション」とも呼ばれる。
もちろん、「A地点から北へ10km」「大通りを市役所の方向へ」のように、英語や日本語などの言語にも絶対的な指標による表現はある。私たちは、普段意識せずに2つの表現を使い分けていることがほとんどだろう。
だがエヴェレットも指摘しているように、右/左、前(正面)/後ろといった表現は、話し手と聞き手が対峙していたり、お互いの体の向きが不明確な場合は誤解や混乱を招きかねない。

アマゾンのジャングルで生きるピダハンにとって、お互いの姿がよく見えない状況でコミュニケーションを取るのは日常的だろうから、もともと相対的な表現が発達する余地は少なかったのかもしれない。
原因は何であれ、私はピダハンが体を基準とする相対的な表現をまったく使わないことが、彼らの社会性やメンタリティーに何かしら影響しているのだろうか?という疑問を持った。他の先住民族がどうか分からないが、ピダハンは作ろうと思えばできるのに長持ちする道具を作ろうとしなかったり、パートナーの浮気や心変りに対してもかなり寛容であったりと、私たちから見れば物欲や独占欲がかなり低い。(ブラジル人や外国人がもたらす便利な道具が好きな一面もあるのだが。)
これは、自分中心に世界を捉える言語表現がないことが、遠因としてあるのではないか?言語表現は、人間の自我意識、物欲や所有欲にも影響を与えているのではないか?
そんなふうに考えたくなってしまうのは、所有や欲望、自己主張が肯定される社会に棲み続けているせいかもしれないが…。