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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

ピダハンについて 8

これまでピダハンの言語と文化の特徴をいくつかピックアップしてきたが、それらの多くがエヴェレットのいう「直接体験の法則」に由来しているようである。彼らは「今」に生き、過去や未来に心を煩わせない。ピダハン語には「心配する」に相当する語彙がないそうだ。私たちからすれば羨ましく思われるが、それはもちろん、彼らが安全で安心出来る環境で暮らしているからではない(むしろ危険なアマゾンのジャングルで医療もない環境)。

そして結論を言えば、私たちがピダハンのように生きることは出来ない。
ピダハンたちは、私たちがけして手放すことの出来ないものを文化的に拒否している。それをあえて一言でいうとしたら、「想像力=創造性」と言えるかもしれない。
ピダハンは自分たちの生活に必要な道具や簡素な家をつくるが、工夫してそれらに改良を加えようする傾向は基本的に見られないようだ。交易商人との交換取引やエヴェレットのような外国人との交流で得た便利な品物も、喜んで使いはするものの壊れても修理しようとはしない。
私は、人間というものは放っておけば、勝手にどんどん創意工夫を始めてしまう性分の生き物だと思っていたので、ピダハンのこのような頑なとも言える文化とライフスタイルに、すっかり自分の先入観を壊された。

こうしたピダハンの特徴について考えるとき、私はどうしても旧約聖書の楽園追放の話を思い出してしまう。私たちは、知恵の木から実を採って食べ、エデンの園を追放されたアダムとイヴの子孫なのだ。想像力の翼を羽ばたかせ、遠い過去や未来に思いを馳せ、見たこともない世界を空想し、新しいアイデアや発明を生み出さずにはいられない。
伝統文化と素朴なライフスタイルを守り続けている少数民族は他にもあるが、エヴェレットは他のアマゾンの少数民族の多くが、むっつりとして引きこもりがちで、自分たちの文化を守りたい気持ちと、外の世界の便利な品物に対する欲望との間で葛藤していたと述べている。
それとは対照的に、ピダハンたちはあたかも楽園で暮らしているかのようだ。ピダハンの村を訪れたMITの脳と認知科学の研究グループは、ピダハンのことを、これまで出会った中で最も幸せそうな人々だと評したそうである。
実はエデンにはもう一組のアダムとイヴがいて、彼らは知恵の実を食べなかったのではないか?ピダハンはその子孫なのではないか?とさえ思いたくなる(敬虔なクリスチャンだったエヴェレットは、彼らとの交流によって無神論者となってしまうのだが)。

私たちの社会では、便利で快適な生活を手には入れても、男女関係のトラブルで殺人まで起き、犯罪や子供の虐待は無くならず、心と精神を病む人も増えている。
ピダハンたちの、子供や浮気した配偶者に対する接し方を見ても、個人と社会が「おとな」で成熟しているのは、むしろピダハンのほうではないのか?と思えてくる。
想像力は諸刃の剣だ。私たちが、想像(創造)力を維持したまま、平和で成熟した社会をつくることはできないのだろうか…?