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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

いじめる側から考えてみる

最近、いじめによる自殺事件が大きな話題になったが、報道されるされないに関わらず、日本ではかなり以前からいじめが問題になっている。
個人的には自分に子供がいないこともあり、正直今まであまり大きな関心を払ってこなかった。いじめについては、もうすでにあらゆる議論が出尽くしているのかもしれないが、大人の正義や論理を一旦脇に置いて、自分の子供時代の経験を思い出しながら少し考えてみたいと思う。

もし子供たちに質問すれば、「いじめはよくない」とほとんどの子供が答えるだろう。5、6歳にもなれば、社会的に何がいけないとされていることなのか、基本的なことはわかるようになっている。しかし、それと自分の行為を子供自身がどうとらえているかは、まったく別の問題である(これは大人もまったく同様だ)。いじめ行為がおこなわれるとき、「これはいじめではない」「相手は○○だからいじめられて当然」などのように、何かしら心理的な自己弁護、自己正当化が本人も無意識のうちにされていると考えられる。
人間は、特に自分が悪い人間だとかダメな人間だとでも思っていなければ、何か不愉快なことがあった時に、自分に原因があるとは考えたがらないものだ。それが人間関係におけることなら、まず相手のせいだと考えたくなってしまう。
多くの場合、いじめっ子本人は、自分をいじめる側=加害者、相手をいじめられる側=被害者のようには考えていないのではなかろうか。
たとえば、私は田舎の農村で育ったのだが、両親は東京出身だったため言葉の訛りがなく、それだけの理由でクラスメートからいじめを受けたことがある。私をいじめた子供は、標準語(実際は東京訛り)で話す私が、まるで気取って格好つけているように見えて不愉快だったのだろう。つまり、いじめた子供の側からすれば(たとえそれが僅かな不快感程度のものでも)、先に被害を受けたのは自分の方なのである。

私はけしていじめる側を擁護しているのではない。ただ、いじめたことも、いじめられたこともある自分の経験を振り返っても、このような観点を含めたいじめの本質、根本原因を探る努力をしなければ、いじめは絶対に無くならないのではないかと懸念している。
子供たちは未熟ではあっても、大人が思うほど愚かではない。大人たちの論理を押し付けるだけ、管理・監視を強めるだけの対策を取れば、その浅薄さを見抜かれ、いじめのさらなる巧妙化、潜在化を招くだけになる可能性すらある。
第一、大人の世界にもいじめはあるのだから、大人自身が解決できていないのだ。人が人をいじめたくなる心理に対する深い洞察と理解がなければ、対処療法だけに留まり、根本的な解決は更に先送りされてしまうだろう。