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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

いじめは人間社会のバグか?

いじめ行為が継続的に行われている場合、少なくとも率先していじめている子供には、その行為に何かしらの快感・快楽が伴っていると考えてよいだろう。いじめ行為によって得られる快感は、ゲームをしている時に感じるようなものかもしれないし、優越感、いじめっ子仲間への所属感、連帯感かもしれない。
実際ネット上で、子供時代にいじめをしていた人が当時を振り返り、罪悪感などまったく無く、むしろいじめが楽しみで毎日学校へ行っていたと告白しているのを読んだことがある。私自身、いじめる側になったこともあるので、このような心理がけして特異なものではないとわかる。

大人の世界でさえ、いじめは普通にある。私は、いじめの無意識の情動的動機というか誘因となっているのは、悪人などが痛い目にあうのを見たときに人が感じる「ざまあ見ろ!」「いい気味だ!」という爽快感に近いのではないかと睨んでいる。そして、そのような快感は、人間という生き物がどのように社会を形成、維持しているのかという、いわば人間社会の根幹を成す部分と繋がっているようにも思えるのだ。
いじめは、外から見れば明らかに反正義、反社会的な行為にもかかわらず、いじめている子供たちの情緒レベルにおいては、不届き者を成敗する正しい行為となってしまっている可能性はある。たとえ理由が、いじめられる子の存在が単にウザかった、目付きや態度が不愉快だった、自分の言うことを聞かなかった…のような自分勝手で理不尽なものでも、である。

普遍的倫理モジュールのリストをまとめた、ノースウェスタン大学のクレイグ・ジョセフ博士は次のように述べている。
「道徳には利他主義や親切心以上のものがある。親切な行動を促す情動を道徳的情動と呼ぶのはたやすいが、排斥や恥辱、仇討ちという名の下に行なわれる殺人につながる情動も、やはり私たちの道徳観を表している。人間社会は構成員全員による驚異的で繊細な産物であり、人々にその社会を大切にさせ、その健全性を支え、強要し、向上させようとする情動はいかなるものも道徳的と考えるべきである。たとえ、その行動が“親切な”ものではないとしても、だ」 

そうだとしたら、巨視的には、いじめは人間社会の繊細さゆえに、どうしても出てきてしまうバグのようなものなのかもしれない。根絶できるなどと考えずに、その都度修正して総数を減らす努力をしてゆくしかないのだろうか、、、。