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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

なめらかにすべきものは何か

青い表紙の本、『なめらかな社会とその敵―PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』に提示されているシステムは、タイトル通り、今の世界を「なめらかな社会」に変える貨幣・投票・法・軍事システムを提示している。
正直、本書に羅列された数式はさっぱり解らなかったが(苦笑)、それらのシステムがとてもよく考え抜かれた上でデザインされていることは理解できる。中でも、タイムダラーやLETSのような既存の代替貨幣、補完貨幣にイマイチ社会を変えられるほどの変革力を感じられなかった私にとって、伝搬投資貨幣PICSYは特に興味深かった。

しかし、それらのシステムにより鈴木氏が実現したいと願っている「なめらかな社会」そのもの対しては、その論拠を含めて、いろいろ疑問がでてきた。
私的所有や社会制度を生命論から論じること自体は大いに共感するものの、【膜】と【核】を基本構造とする細胞も、元をただせば認知がつくりだす仮構的な存在であり、複雑な化学反応のネットワークである【網】に過ぎないと看破することで、生命が理解できたとは私は考えていない。生命の本質が、今現在の科学技術で観測可能な化学反応の連鎖や電磁気的パターンの集まり、渦やよどみにすべて還元できる範囲内のものと捉えるかどうかによって、そこから導き出される結論も大きく変わってくるだろう。

それに、膜の通りをよくしたり核の機能を改善して新陳代謝をよくすることと、これらを無くしてしまおうとすることは決定的に違う。化学反応の網に還元しようとすることは、生命体であることをやめる―死・崩壊を選択するということにならないのか?
それは社会なら、国家や地域社会、家族という括りの解体を意味する。それこそ、まさに鈴木氏の目指す国境なき世界なのかもしれないが…。これらのシステムを導入すれば、膜と核に代わるネットワークベースの新しい世界秩序ができると氏は考えているのだろうが、しかして、それは本当に今の社会よりも好ましいものになるだろうか?
私がその具体的な姿をイメージしようとしても、みな鈴木氏のような平均以上の知性と理性と良識を備えた人たちばかりが住む極めてSFチックで非現実的な世界か、今よりも見えにくく解消しにくい格差や分離が生まれた混沌とした社会しか思い浮かべられなかった。

紀元前2000年頃の古代バビロニアに、書記の養成学校に通う子供の話がある。子供は学校で粘土板の読み書きが悪いと、先生に叱られ鞭で叩かれた。子供は父親に、先生を家に招いてもてなすように頼む。酒食の接待を受け、服を贈られた教師は、態度が一変して子供を褒めたという話である。
こういう話を読むと、少なくともここ数千年、人間の本性はまったく変わっていないことがわかる。21世紀の現在も、世の多くの人が、できれば楽して得したい、義務や責任から逃れたい、見つからなければズルしたい…といった自らの内側からくる誘惑に負け、周囲の人とトラブルを繰り返しているのが現実である。
人類がそんなレベルである限り、大方の国の政府はそれなりに社会的役割を果たしているし、どんな立派なシステムを使おうが問題が絶えず、社会がそれほど良くなるとも思えない、というのが私の基本的な考えだ。

でも、鈴木氏は24世紀という超長期的な想定で書いているので、もしかしたらその頃までには、人類は精神的跳躍を果たし、今よりも進化しているのかもしれない。その跳躍のためになくす必要がある膜や核は、社会システムよりも、化学反応に還元しきれない人間の意識の中にあるような気が、私はするのだが…。

参考文献: 『なめらかな社会とその敵―PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』 鈴木健・著
      『シュメル―人類最古の文明』 小林登志子・著