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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

健康な野菜と社会

『なめ敵』では、国境をはじめとする社会のさまざまな境とコントロールの起源を、オートポイエーシスと細胞の基本構造である膜と核に求めているが、その部分を読んだときに思い出したことがある。

以前、無農薬・無肥料で育てた自然栽培野菜を宅配購入していた時のことだ。
それらの野菜が、味や食感以外にも、農薬・肥料を使った通常の野菜と明らかに違うことに気がついた。通常の野菜は、時間経過により傷みが進むと、細胞組織が崩壊して全体的に柔らかくなり溶けていくようなプロセスをたどる。それに対して自然栽培の野菜は、そのまま枯れるように萎んでいく。自然栽培野菜は細胞がしっかりしていて、組織が壊れにくいのだ。それでいて、たとえば人参の漬物など、中心の色のうすい部分と外側の濃い部分が箸で簡単にくり抜けるように分かれたりもする。細胞どうしの境がはっきりしているので、普段はぴったりくっついているが、すぱっと分かれることもできるのである。

その野菜を販売している業者が行った、キュウリを使ったある実験の写真を見せてもらったことがある。
収穫された自然栽培キュウリをまん中で半分に切り、再びくっ付けると振っても離れないほどくっつく。それをそのまましばらく放置すると、キュウリはまず切断部分から下半分だけが先に萎びて枯れてゆき、その後に上半分も萎んでいく。
この実験の再現率は不明だが、キュウリは茎と繋がっていた上半分を守ることを優先し、下半分を犠牲にして切り捨てたようにも見える。
人体は、首・脇・鼠蹊部にリンパ節が集中しており、体幹を守る関門となっている。これは、いざというとき命を守るため、四肢は犠牲になることもあることを意味している。生きものは、自分や子孫の命を守るために、体をパーツ分けし優先順位を決めているのだ。

そのような体験や知識から、私は人間の社会の健全さも、基本は同じだろうと考えるようになった。
もし社会が不健康で機能不全を起こしているのなら、まずやるべきは膜や核の機能を正常に戻すことだろう。人・モノ・金・情報といったリソースがスムーズに流れず新陳代謝が滞っているからといって、むやみに膜や核を壊したり無くしてしまえば、確保しておかなければいけない栄養素が流出し、ウィルスや病原菌に侵される危険性が大きいのだ。現代社会は、ドラッグや海外投資、移民問題など、リソースの不適切あるいは過剰な流出入が問題となっていることが多い気がする。

もし、既存の膜や核を壊して新しいものを構築するというのなら、子供・老人・障害者・女性といった弱い立場の人たちが守られることをもっとも考慮するべきだと思う。かれらは守るべき内臓なのだ。くわえて、付加価値の高い労働に従事できない人や、自分に直接関わること以外はあまり考えが及ばない人、さらに、自分の利益しか考えない利己的な人のことも考慮してつくらなければ意味がないだろう。そうしないと、表面的には一見平等で公平になったように見えても、じきに前よりも強いもの、能力の高い人、狡猾な人びとに有利な社会システムになってしまうような気がしてならない。

なめらかにすべきものは何か

青い表紙の本、『なめらかな社会とその敵―PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』に提示されているシステムは、タイトル通り、今の世界を「なめらかな社会」に変える貨幣・投票・法・軍事システムを提示している。
正直、本書に羅列された数式はさっぱり解らなかったが(苦笑)、それらのシステムがとてもよく考え抜かれた上でデザインされていることは理解できる。中でも、タイムダラーやLETSのような既存の代替貨幣、補完貨幣にイマイチ社会を変えられるほどの変革力を感じられなかった私にとって、伝搬投資貨幣PICSYは特に興味深かった。

しかし、それらのシステムにより鈴木氏が実現したいと願っている「なめらかな社会」そのもの対しては、その論拠を含めて、いろいろ疑問がでてきた。
私的所有や社会制度を生命論から論じること自体は大いに共感するものの、【膜】と【核】を基本構造とする細胞も、元をただせば認知がつくりだす仮構的な存在であり、複雑な化学反応のネットワークである【網】に過ぎないと看破することで、生命が理解できたとは私は考えていない。生命の本質が、今現在の科学技術で観測可能な化学反応の連鎖や電磁気的パターンの集まり、渦やよどみにすべて還元できる範囲内のものと捉えるかどうかによって、そこから導き出される結論も大きく変わってくるだろう。

それに、膜の通りをよくしたり核の機能を改善して新陳代謝をよくすることと、これらを無くしてしまおうとすることは決定的に違う。化学反応の網に還元しようとすることは、生命体であることをやめる―死・崩壊を選択するということにならないのか?
それは社会なら、国家や地域社会、家族という括りの解体を意味する。それこそ、まさに鈴木氏の目指す国境なき世界なのかもしれないが…。これらのシステムを導入すれば、膜と核に代わるネットワークベースの新しい世界秩序ができると氏は考えているのだろうが、しかして、それは本当に今の社会よりも好ましいものになるだろうか?
私がその具体的な姿をイメージしようとしても、みな鈴木氏のような平均以上の知性と理性と良識を備えた人たちばかりが住む極めてSFチックで非現実的な世界か、今よりも見えにくく解消しにくい格差や分離が生まれた混沌とした社会しか思い浮かべられなかった。

紀元前2000年頃の古代バビロニアに、書記の養成学校に通う子供の話がある。子供は学校で粘土板の読み書きが悪いと、先生に叱られ鞭で叩かれた。子供は父親に、先生を家に招いてもてなすように頼む。酒食の接待を受け、服を贈られた教師は、態度が一変して子供を褒めたという話である。
こういう話を読むと、少なくともここ数千年、人間の本性はまったく変わっていないことがわかる。21世紀の現在も、世の多くの人が、できれば楽して得したい、義務や責任から逃れたい、見つからなければズルしたい…といった自らの内側からくる誘惑に負け、周囲の人とトラブルを繰り返しているのが現実である。
人類がそんなレベルである限り、大方の国の政府はそれなりに社会的役割を果たしているし、どんな立派なシステムを使おうが問題が絶えず、社会がそれほど良くなるとも思えない、というのが私の基本的な考えだ。

でも、鈴木氏は24世紀という超長期的な想定で書いているので、もしかしたらその頃までには、人類は精神的跳躍を果たし、今よりも進化しているのかもしれない。その跳躍のためになくす必要がある膜や核は、社会システムよりも、化学反応に還元しきれない人間の意識の中にあるような気が、私はするのだが…。

参考文献: 『なめらかな社会とその敵―PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』 鈴木健・著
      『シュメル―人類最古の文明』 小林登志子・著

赤い本と赤い大国の関係

赤色の本『2052~今後40年のグローバル予測』は、今から40年前(正確には41年前)の1972年に出版された、かの有名なローマ・クラブ『成長の限界』を踏まえ、さらに次の40年を予測する21世紀への警告書(!)である。その内容は、地球温暖化がもたらす気候変動、資源枯渇、環境汚染、生態系破壊などにより、持続不可能な方向に進んでいる地球と人類の未来が描かれた、かなり厳しいものとなっている。

『The Global Warming Swindle(地球温暖化詐欺)』を見てしまった私としては、もうCO2が温暖化の主要原因だとは信じていないが、現実に巨大ハリケーンなど気象現象の激烈化や水資源の枯渇といった現象はすでに始まっている。たとえ温暖化の代わりに小氷河期がやって来たとしても、人類は基本的に同じような問題に直面することを避けられないように思う。
主著者のヨルゲン・ランダース氏は、そのために各国は、未来の資源枯渇や環境破壊を避けるための予防的な投資と、ハリケーンや洪水などの被害による事後の強制的投資が増えるだろうと予測している。

そして、そのような投資と持続不可能な事態を回避するためには、強い意志とリーダーシップ、決断のスピードが必要だとして、現在の西洋社会で支配的な4つのパラダイム―「市場経済の効率性」「民主主義政治の自己修正能力」「化石燃料に基づく持続的経済成長」「自由貿易と国際化がもたらす幸福」―が変わる可能性を示唆している。
ランダース氏は、この危機的な状況を人類が生き抜くためには、私たちが今当たり前のように享受している自由の多くを諦めなければならないのは必至だと考えているようだ。

氏によると、米国から中国への世界のリーダーシップの移譲は平和裏に行なわれ、2052年に中国は世界のリーダーになっているらしい。読者への「20の個人的アドバイス」では、子供たちに北京語を習うように勧めなさいとまで書いている。
…しかし、いくら経済発展目覚ましく、一党独裁で決断と行動力に優れているからといって、なぜここまで中国の体制を評価、支持しているのか?深刻な環境汚染のニュースを何度も見聞きしている隣国民の私としては、正直、政治的意図を嗅ぎ取ってしまう。なにせ彼の20番目のアドバイスは、「政治において、限りある資源の平等な入手は、言論の自由に勝ることを認めよう」である。

やがて一部のエリートによる管理体制のもとで、人類は何とか生きのびるほかない時代が訪れ、私たちは今、束の間の民主主義と市場経済、言論・表現の自由を味わっているのだろうか。。。

参考文献: 『2052~今後40年のグローバル予測』 ヨルゲン・ランダース・著

赤と青の示す未来

私に限らず、多くの人が自分の国や世界、そして地球環境がどう変化していくのかに関心を寄せている。
それは、単に自分の仕事やライフプランを左右するものだから知りたい場合もあれば、世の中が今抱えている問題や将来起きるであろう問題をどう解決または回避すればよいか知りたい場合もあるだろう。

そのような未来への関心に対して興味深い提言をしている2冊の本がある。
一つは、かなり高齢のビジネススクール教授による未来予測本。もう一つは、1975年生まれという若い研究者による新しい社会システムを提示している本だ。この2冊は、著者の世代だけでなく、そこに描かれている未来像もまったく違う。本の装丁も、偶然にも赤と青という対照的な色である。

2052 ~今後40年のグローバル予測

2052 ~今後40年のグローバル予測

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

今年の一月という、たまたま同時期に発売された(一冊は翻訳本)2冊は、書かれた意図も背景もまったく違うもので、そもそも比較すべきものではない。だが、そこに書かれている政治・経済のすがた、ベクトルがまったく逆の方向を示しており、資本主義と民主主義の行く末が気になる私としては、妙にその違いが印象に残ってしまった。

2冊の内容がそのまま現実になる可能性はほとんどないかもしれないが、それらの内容をベースに皆が考えてみることは大いに意味がありそうだ。
歴史は、目の前の問題への現実的な対応と、夢想された理想の実現化の両方によって織りなされるのだろう。今までも、そしてこれからも…。

世界はフラット化しているか?

ここ十年くらいのあいだだろうか?パソコンとインターネットの普及から、瞬く間にバーチャルな世界が一般の人々にとって当たり前になった。ソーシャル・ネットワーキングは、世界をよりボーダーレスでフラットにしているように見える。
だが、たとえ電脳空間で有名人とフランクに会話できたからといって、その関係がリアル世界に反映されるようなことは、ほとんどの場合起こらないのも現実だ。
情報も、今まではごく一部のグループしか知りえなかった情報や政府が公表を控えていたような情報が、あっという間に世界を駆けめぐるようになったと見える一方で、さらに多くの貴重な情報が、一部の人たちのところだけに集まりシェアされているような気もする…。

前回の記事で紹介した対談で竹中氏は、フラットな世界が実現していくと同時に、スパイキーな(とんがった)世界も実現していくと語っている。経済的に中間層が減ってフラット化する中に、一部非常に高い所得を得るクリエイティブ・クラスが突出している状態だ。
佐藤氏は、ソーシャル・ネットワークについて、一見人脈を拡大するように見えるが、本当の人脈は狭くなること、そして特にエリート層においてコミュニケーションの形が変わりつつあることを指摘する。

私は全体としてバーチャルも現実世界もふくめ、複数のネットワークがやや階層的にレイヤーを形成しているような多重的社会構造をイメージする。
結局、リアル社会で会える人というのは限られている。ネットで誰とでもつながれる分、逆に現実世界で面会出来ることの価値は大きくなり、差別化・階級化が進むのかもしれない。一見フラットなネットワーク社会、実は複数ネットワークが複雑に重なり、一部、他からのアクセスがかなり難しい閉ざされたネットワークが存在する、そんなイメージだ。

しょせん私のような一般ピープルは、バーチャル世界で上層フラット気分を楽しむことはできても、現実社会では下層フラットとして生きるのが関の山ということか。

参考サイト: GQ Japan 『新しい資本主義が日本から生まれる可能性はある!──竹中平蔵 × 佐藤 優』

江戸の除夜の鐘は経済リセット

(前記事のつづき)…で、実経済からも離れて亡霊化肥大化したお金は、ときに膨らみ過ぎた風船のようにはじけて実経済にも多大なダメージを与える。それならば、定期的な「リセット」によって健全な経済状態を維持するのは、直感的には理にかなっている気がする。
このような発想はタイムダラーのような期限付きのお金というコンセプトへも繋がるが、偶然ネットで見つけた対談によると、江戸時代の日本は、そのようなリセット機能を文化の中に組み込んでいたようだ。

その対談の中で竹中氏は、大晦日の除夜の鐘で借金が全部リセットされ、贈与が決定するという話をしている。そして江戸時代の経済が贈与経済だったと指摘し、贈与はこれからの資本主義を考える上でもキイワードになると語っている。

それにしても、この竹中平蔵氏と佐藤優氏の対談は面白い。GQって、今まで男性ファッション誌ぐらいにしか思っていなかった。内容もさることながら、受け答えのしかたに二人のキャリア、バックグラウンドの違いが如実に出ていて、読んでいて思わずニヤリ。
竹中さんはアカデミーヒルズで二度ほどナマで見た時、正直オーラ感じなかったけど(爆)、お見逸れしました。m(_ _;)m 私が参加したイベントでは、きっとぜんぜん本気出していなかったんだね(笑)。

参考サイト: GQ Japan 『新しい資本主義が日本から生まれる可能性はある!──竹中平蔵 × 佐藤 優』

ここらで一度お金のこと

そもそも、はてなを始めたメインの動機がお金について書くことなのに、ダイアリーからブログへ移ってからというもの、お金に関する記事は皆無。まったく書いていない(爆)。もうちょっと勉強してからと思いつつ、お金についても経済についても一向に理解が進まないうちに早一年以上経ってしまった。このままではいつまで経っても書けそうにないので、見切り発車的にここらで一度書いておこう。

お金とは何か?お金は「影」のようなものだという人もいる。モノ(財)に光を当てたときにできる、そのモノのシルエット(価値)を映す(移す)影である。
この比喩で考えてみると、影は二次元だから三次元のモノより次元が一つ下がっている。これは、お金はモノ(サービス)と比べると何かが欠けている、あるいは何かが取り除かれたものがお金であるとも考えられる。欠けているものとは、個別のモノ(サービス)が持つ「ユニークさ・かけがえのなさ」かもしれない。
八百屋やスーパーでリンゴが1つ100円で売られているとき、ひとつひとつのリンゴはどれも大きさ・色・形・味などが微妙に違うが、それらは100円という価格設定や交換される100円というお金自体には反映されない。サービスもしかりだ。お金は、モノやサービスが市場で交換されるために、「商品」として単純化(低次元化)されたときにできる影といえる。
しかもこの影は、光のあたり方によって大きさが変わり、市場というフィードバック・システム以外にも、情報の囲い込みなどにより、かなり意図的に影の大きさを操作することが可能なようだ。

また本来、影はモノから離れて存在することは出来ないはずだが、お金という影は硬貨や紙幣などに乗って動くことができる。元のモノやサービスから離れた影は、それ自体がモノ(商品)としての性質を帯び、交換の対象/目的にもなった。
両替・金貸しから金融が発達し、硬貨や紙幣という乗り物さえ必要としなくなったお金はさらに自由度を増し、今や電子のハイウェイに乗って物凄いスピードで世界中を動き回っている。
お金は自由になり過ぎて、亡霊のようになってしまった影なのだろうか?