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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

ショック・ドクトリン ― 惨事便乗型資本主義 1

カナダのジャーナリスト、ナオミ・クライン女史の話題本、『ショック・ドクトリン』を年末年始に読破しようとして、早々に挫折してしまった。
上下2巻にわたる大著だが、私には序章だけで十分だと思ってしまったのが一番の理由。
それと、第一部第一章の内容が、いきなりCIAと精神科医による一般患者を使っての人体実験(もちろん告知・同意なし、女史によれば拷問)に関するもので、のっけからそのあまりの残虐さに辟易してしまったのだ。映画の残虐シーンなら全く平気な私でも、実際に犠牲になった人間がいるという現実に戦慄する。

ショック・ドクトリンとは、自然災害や政変、経済的危機などの大惨事を利用して実施される、市場原理主義的政策、経済改革のことである。

「壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為を、私は「惨事便乗型資本主義」と呼ぶことにした。」(上巻p5-6 ※太字ブログ主)

「ショック・ドクトリンはまさにそのように機能する。まず初めに大惨事――軍事クーデター、テロリストの攻撃、市場の暴落、戦争、津波、ハリケーンなど――が起きると、国民は茫然自失の集団ショック状態に陥る。(中略)恐怖に打ちのめされた拘束者が同志の名前を明かしたり信念を放棄したりするのと同じく、ショックに打ちのめされた社会もまた、本来ならしっかり守ったはずの権利を手放してしまうことが往々にしてある。」(上巻p22)

被災者のショック状態や戦争・災害で壊滅状態になった土地は、惨事便乗型資本主義者から見れば、拷問を受けた拘束者の意識状態と同じ、何でも好きな書き込みができる「白紙状態」というわけだ。だが、それだけではない。

「チリ、中国、そしてイラクに至るまで、グローバルな自由市場改革運動と手を携えてひそかに行われてきたこと、それが拷問であった。拷問は反抗的な人々に彼らの望まない政策を強引に押しつける手段というだけではない。それはショック・ドクトリンの底流を流れる論理のメタファーでもある。」(上巻 p20-21)

クライン女史は、ショック・ドクトリンの源泉を、新自由主義ネオリベラリズム)の代表的存在として知られる、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンであるとする。

「私は、すべての市場システムの形態が本来暴力的な性格を持つと主張しているわけではない。このような暴力やイデオロギー的純粋性を持ち込まなくとも、市場経済は十分に成り立つはずである。(中略)市場は原理主義的なものになる必要はないのだ。
(中略)その観点から見れば、シカゴ学派の説く資本主義には他の危険思想との共通点――極端なまでの純粋性と、理想社会を構築するための白紙状態への希求――が認められる。
世界をゼロから創造する神のごとき力をわがものにしたいというこの欲望こそ、自由市場イデオロギーが危機や災害に心惹かれる理由にほかならない。」(上巻p27-28)

この本のように、おそらく取材を始める時点である程度の「結論ありき」だったと推察されるものを読むときは、十分注意が必要だと思う。とくに本書は丁寧な取材の上で書かれており、一見ルポルタージュのように読めるのでなおさらだ。
それでも、クライン女史による広範囲にわたる取材と、そこから導き出される「共通項」は、世俗的な陰謀論にはない強い説得力をもっている。