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調和的でサスティナブルな社会・経済システムとは?変化の激しい世界で歩きながら考える。

数字と計測は人間の意識を変えたか?(数感覚、数字、数えること 2)

サルの計算能力実験の記事で、「数感覚」という言葉をはじめて知ったけれど、その前から、数を把握するのに「数字」や「数える」という行為は必ずしも必要でないことは認識していた。
ただ素朴な疑問として、数感覚という直感的な数の把握の仕方で、一体どのくらいの大きさの数まで把握できるのだろうか?鍛えれば、その数を増やすことが可能なのだろうか?
計算実験で比較された学生の成績がサルと同レベルだったのを見るかぎり、少なくとも現代の“文明人”は、その能力をサル以上に伸ばすことはしなかったようだ。ひょっとしたら、カダヤシには負けているのかもしれない。

その能力を伸ばすのと引き換えにか、私たち人類はゼロを含む数字を発明し、数えるのも大変な膨大な数や自然数以外の数、それらを用いた複雑な計算までも思考可能にした。また、数値をもちいて「計測」するという行為も可能になり、あらゆるものを測定・比較するようになった。
いったい数字は、どのように生まれたのだろうか?数字と言語は、ほぼ同時に発生したのだろうか?そのまえに、動物たちは鳴き声の回数などで、仲間に数を知らせたりすることがあるのだろうか?疑問は尽きない…。

おそらく、人間は仲間に数を伝えようしたから、数字が生まれたのだろう。最初は指の本数や発声の回数などで数を表すことから始まったのかもしれないが、数感覚ではなく、数字をつかって数える、測るという行為をはじめた時、人類の意識に大きな変化がもたらされたのではないか。
数感覚だけで食物や敵、仲間の数などを把握しているうちは、数はその対象と不可分の属性、自分の生存と密着した情報の域を出なかった。数字は、数を対象から引き離して抽象化し、カウントと計測は、比較能力を飛躍的にアップさせると同時に、「同数」「同量」といった数量的同等性の概念も純化させたと推測できる。
数字の発明と計測の始まりが、「貸借」「交換」といった経済行為や、社会における「平等」「公平」という価値観を生み出す土台となったのかもしれない。

ちなみに、引用した動物実験では、いずれも数の大小の違いが認識できるかをテストしており、「同数」の認識ができるかはテストされていないようだ。